こんにちは、きょうたです。
当ブログの管理人をしている30代、発達障害の社会不適合者だ。
こんなブログを書くなんてどんな野郎なんだと思ったそこのあなた。
たしかにその気持ちはわからなくもない。
というわけで僕が現在までどのように生きてきたかを書きたいと思う。
目次
生まれは広島→幼稚園はアメリカという変な環境で育った
生まれは広島県、広島市。バブルが崩壊した1990年に生まれた。
生まれてすぐに親の仕事の都合でアメリカに家族全員で渡米した。
人間は3歳より前の記憶があることは稀で、
生まれた時の記憶があるとか、小さい頃のことを覚えているのは、
ほとんどの場合、親から聞かされた話や、ホームビデオ、写真によるものだ。
(それくらい人間の脳の記憶は曖昧なのだ)
というわけで幼少期にアメリカで過ごしたというリア充な記憶は一切ない。
小学校から始まった地獄の日々
小学校の頃は塾と家庭教師で休みが一日しかなかった。
バブル崩壊の恐怖から親たちが安定した大企業、
公務員にするために必死になった時代だ。
プロフィールにもある通り大人になって図った僕のIQは88だった。
IQは標準偏差で分布するので僕は中の下ということになる。
そして知能は大部分が遺伝だ。
今でいう教育虐待を受けた僕だったが塾と家庭教師の意味はまるでなかった。
父親がバブル崩壊の影響で会社をクビになり離婚したことで、
僕は運よく教育虐待の地獄から解放された。
ギリギリ卒業できた中学、高校
勉強は全くできなかったが広島で一番下のレベルの私立の中学に入学した。
高校までエスカレーターなのと父親がいなくなり怒る人がいなくなり、
毎日死ぬほど遊んでいた。
私立は生徒がお客さんなので、
先生も度が過ぎたイジメなどではない限りは放置してくれる。
高校になると学校に行く意味が感じられなくなり、
担任にあと何日休んだら留年になるか確認しながら不登校を繰り返していた。
人生で一番努力した専門学校時代
僕はギリギリで高校を卒業した後、上京して東京の美容専門学校へ入学した。
朝の四時に起床して7時に学校へ行き(当然誰もいない)練習した。
授業の後も夜の23時まで残って練習した。
それでも僕の技術は学校で一番どころかクラスでも上から三番目程度だった。
面白いことに後に美容師として活躍している同級生は、
授業をサボってキャッチのバイトをしていた人やクラスで一番技術が下手な人だった。
僕のようにガチガチで技術を練習していた人は尽く美容師をやめている。
何が言いたいのか、努力は報われないということではない。
間違った方向でやる努力は意味がないのだ。(これも最近気がついたことだ)
美容師になるもすぐに挫折しナイトクラブの店員に
コミュ力だけはあるのでなんとか青山の当時一番人気だったサロンに入社することはできた。
だが美容師に要求されるものはオシャレ力だけではなく、
トーク力、美的センス、戦車のような体力、縦社会に耐えれる精神力、肌の強さ。
あらゆるものが必要だった。
僕があったのはトーク力くらいで後はボロボロだった。
レベル上げをしていないのにラスボスに挑んでいるようなものだ。
結果僕は一年で一社目のサロンを辞め、次のサロンも一年でやめた。
その後は専門学校時代の後輩の紹介で六本木のナイトクラブで働くことになる。
(ナイトクラブとは陽キャのオラオラ男子とギャルが踊ってDJがいる場所だ)
人生で一番続いたナイトクラブの仕事
働き始めた時はほぼヤ〇ザのような仕事内容に驚いたが、
後に発達障害のせいなのかそれが刺激的で面白く最終的に4年も続いていた。
今まで何も続かなかった自分にしては長い方だ。
何より先輩後輩のようなウザい縛りがなく完全実力主義という環境が自分に合っていた。
言うまでもなく実力主義なので雑魚はどんどんやめていく。
今はそんなことは思わないが当時はやめていく奴のことなんてどうでもいいと思っていた。
おかげで離職率がハンパないので労働環境は超絶ブラックで、
一日の労働時間は14時間が普通だった。
給料は同級生の高卒よりははるかに良かったが時給換算すると770円だった。
環境と自分の実力を勘違いした転職、発覚した発達障害
クラブ時代は蹴落とし合いだったので、
気に入らない奴がいたらどんどん排除していった。
そうなると完全に裸の王様になるため自分の実力を過信していた。
若さも相まってこんな厳しい環境で通用するのならどんな状況でも通用すると勘違いした。
クラブ関係の投資家さんの繋がりで高卒ながらIT企業に転職させてもらった。
もちろんその頃の経験があるからこのブログをWPで書けているわけだが、
あまりにも精神的にキツくうつ病になってしまった。
それまでうつ病になる奴なんてみんな気持ちが弱い奴だと思っていた。
そしてうつ病の診断を貰うべく病院に行ったところ発達障害という診断を受けた。
落ち込むよりも納得だった発達障害の診断
発達障害の診断は死刑宣告というよりも自分の自己紹介を他人からされた気持ちだった。
それくらい発達障害の診断が自分に当てはまりすぎていた。
もちろん全てのことが発達障害のせいだとは言わない。
だがここには書ききれないくらい今までの人生の失敗が発達障害で説明できてしまうのだ。
最後の希望を求めてyoutubeを始めるも
僕がIT企業に転職したのは実は起業したかったからだ。
しかしどうにもこうにも人間とうまくコミュニケーションが取れないので、
youtubeなら少人数でできるし夢があると考えた。
(当時はコロナ前でyoutubeにはチャンスがあった)
世界で怪魚を釣ることを生きがいとしているが食えてない地元の同級生がいたので、
そいつと二人で旅系youtubeを始めることにした。
地元の広島に戻り家賃28,000円のマンションに住み、
居酒屋でバイトをしながら金を貯めてブラジル、ガイアナ、ベネズエラという三カ国を旅した。
そして満を持してそれらの土地で撮影した動画をアップするも、全く伸びない。
完全に失敗だった。
相方は演者で僕はカメラと編集担当だった。
しかし演者の彼は釣りをして帰国するとやることがない。
パソコンを触れるのは僕だけだからだ。
そして暇なので出来上がった動画を見てああしろこうしろと支持をしてくる。
雇われているならまだしも、
無給で対等な立場な奴にそこまで言われるとこちらもイライラしてくる。
だがこちらには言い返す材料が一切ない。
それならと相方にyoutubeの解散を告げ自分一人でyoutubeを始めることにした。
怒りからyoutubeを個人で始める
相方との撮影はきちんとしたビデオカメラ、撮影場所、字幕、効果音の編集など、
youtuberとしての要素は揃っていた。
それでも動画が伸びないのは完全に演者がつまらないからだ。
だが僕がすでにyoutubeで登録者がいるならまだしも、僕も素人。
ならば僕がスマホ一つで編集をほとんどせずに、
登録者を一年で一万人にすれば元相方を負かせると考えた。
結果的にこれが功を奏してただの素人が一年で登録者を一万人にすることができた。
つまり結果としてyoutubeが伸びなかったのは演者である相方がつまらないからだった。
みなさんもお気づきのように字幕や音楽が面白いからyoutubeを見るのではなく、
出演している本人が面白いから見ていることがほとんどだろう。
なぜかテレビに置き換えたら普通にわかるこの理論がyoutubeだとわからないらしい。
ちなみに僕は心の中で勝ったと思えばそれで充分なタイプで、
元相方に電話をしてマウントを取ることなど一切していない。
このブログで書いたようにそれくらい他人に興味がないし、
完全実力主義の方が結果的に僕には合っているのだろう。
これからの人生
以前はものすごく長いプロフィールを書いたが一度全部消してしまった。
なんだか色々勉強した結果、自分の中でやりたいことが決まったような気がしたからだ。
なぜ自分の人生を長々と書いたかと言うと、
僕は今まで環境になんだかんだ左右されてきたことを自認するためだ。
だが僕は幼少期から一人部屋でゲームやレゴをして遊ぶのが好きな子供だった。
大人になってオシャレに目覚めて東京にまで行ったことでかなり色々経験してしまった。
六本木クラブ時代にはオーダースーツ、高級時計(言ってもたかが30万円くらい)、高級靴、
高級焼肉etc.あらゆることを経験してみた。
だが30代になり全てがどうでもよくなってしまったのだ。
それは陰キャの僕がある程度経験色んなことを経験したからかもしれない。
というかたぶんそうである、経験してないと人間はいつまでも憧れを持ち続けるらしい。
だから何一つ成功していない僕ではあるけど無駄なことをたくさんしたせいで、
たくさんの失敗の経験はできた気がするのだ。
今は家は地元広島の家賃6万円の普通のアパートで一人暮らしをしている。
食べ物はスーパーのお惣菜だし、着ている服はユニクロだ。
ミニマリストだから家にテレビはないし、ソファーもない。
東京時代に持っていた自慢できるものは何一つ持っていない。
シングルマザーの彼女がいるが結婚するつもりはないし、
相手にもその点は理解してもらっている。
長々と書いたが何が言いたいかと言うと。
僕はなるべくして元々のなるべく人間になった気がするのだ。
ある時、クラブ時代の同期社員に「きょうたさんって小物感ハンパないっすよね(笑)」
とからかわれたことがあった。
当時は相当にムカついたのだが今だからわかる、僕は元々オーラのない小物だった。
それは今に始まったことではない。
自転車のコロなしに乗るのに弟は1漕ぎ目から乗れるのに、
僕は一か月半かかった。
弟と同時期に始めたサッカーも弟はいつもレギュラーなのに僕はいつもベンチだった。
リレー選手に選ばれたこともないし、
部活で賞をもらったのもテニスのダブルスで相方の運動神経が死ぬほど良かったからだ。
さらに上記したように頭が特別いいわけでもない。(というか中の下だ)
生れてから成功したことがないと、
映画の見すぎでいつか自分にも一発逆転が起きると信じるようになる。
だが早稲田大学卒業の主将が外資系企業で営業トップになるように、
人生は勝ち組がもっと勝ち組になるようにできている。
つまり人間の運の総量は決して平等ではないのだ。(生まれた瞬間から)
じゃあ、そんな僕に生きる場所がないかというとそうでもない。
何も大金持ちになる必要はないし大物youtuberになる必要はないのだ。(理由は別記事で)
「あなたにはあなたが輝ける場所がある」これは正しいが辛い現実でもある。
あなたのなりたいものがワールドカップで活躍できるサッカー選手だとしても、
あなたが輝ける場所はサッカーを教える学校の先生かもしれないのだ。
だからこそ、だからこそ努力と挑戦は必要なのだ。
なぜならサッカーボールを蹴らないとあなたが本田圭佑になれるのか、
そうでないのかは誰にもわからないのだから。